2010/05/28

本日、高校生のための金曜特別講座に行ってきました。まぁ、一言でいうと、「山内昌之先生が高校生のニーズに応えない講義をしていた」という感じです。

だってさー、イスラームの近代化の話は流石に堂に入ったものだけれど結局言いたいことは唯の島津萌えじゃん。歴史学と萌えは峻別しないと、司馬遼太郎や塩野七生といった小説家と同類になってしまうと思うのですよ?

そして、政治的に煽っているのは、この場では相応しいものと思えない。未来を考えてる高校生に、ネガティブで曖昧な思想を吹き込んでどうするの、と。「あとは、わかるな?」的な言い方は私は大嫌いです。政権に不満があるのなら堂々と自分なりの解決策を提示して論破すればいいのに。

あと、政治学(といいつつ多分今の政局を指している)と歴史学を一緒くたにして、事実に基づいて選択肢はどれかを選ばなければならない、という言い方をしていましたが、これも不同意。こんな言い方をしたら、高校生には「選ぶことがOKなら、切り捨ててもいいのだ」という拙速な認識に至らし兼ねません。

まず、歴史学は事実を積み重ねてゆくうちに、おのずと結論が導き出される学問であって、選択するものではないと思うのですよ。そもそも歴史学は結論を選ぶ必要はありません。複数の競合するように見える結論が出てしまったら、それらを合理的に統合する仮説を提示するか、材料不足として保留するのが誠実なやり方でしょう。

そんな感じで、かなり腹を立てて帰ってきました。歴史学について初心に戻って考えてみるか、と講義を聴きに行ったら、アジテーション(しかも変に婉曲)を聞かされたわけですから。

そういう史学科卒業生の疑念はおいておくとしても、高校生はもっと「歴史学を学ぶ意味とかノウハウ」を求めて来ていたはずで、もっと広範な類例を知りたかったんじゃないかと。ある事象に対する強烈な問題意識を過去に遡ることで解析したい、できれば解決の糸口を見つけたい、その欲求をどのように具体化するか。歴史を勉強するにあたって、どんなアプローチをしたらいいのか、どんな点に注意すべきなのか。

なのにエジプトをダシに島津萌えを延々聞かされれば‥‥寝ている高校生が多かったのが、不幸中の幸いかも。

個人的には質問もあったんだけどね。「先生が挙げた比較史の例は同時代ばかりだけれども、時代の違う地域を比較しないのでしょうか?」てな感じ。タイの近代化と明治の近代化政策とか、コリアン・ディアスポラとハドラミーの拡散とか。でもこの講義は高校生が主人公なので遠慮しときました。

とまぁ、ぶっちゃけた話、時間稼ぎに急遽前座に入ったミトコンドリアの話の方が面白かった。『千の風になって』は炭素循環を科学的に正しく歌っている! とか、ミトコンドリアは卵子から受け継がれていて、かつ細胞で一番熱を発生しているのだから、私達はいつもお母さんのぬくもりに包まれていることになるのです! とかバカ話ギリギリで最高。これくらい面白くないとねぇ。

余談、塩野七生についてはアンサイクロペディアの記述が一番当を得ていると思います。